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遺書

残念ですが僕のじゃありません。当分は死ぬ予定はありません。この痛いブログの創設者として身元が割れない限りは。

 

遺書に名文が多いのはなぜでしょうか。今日も遺書の名文を探すという鬱習慣を繰り返しているとふと考えた疑問です。ただ作家の遺書が取り上げられることが多いのか、人生を締めるに値する遺書は自然と名文になり得るのか。

 

そしてなぜこうも遺書が名文たり得るのか、少し考えます。そもそもそれぞれの遺書にも共通点や相違点が見えてきます。

 

多くに共通するのは他人に何らかを伝える点です。多くは遺族にあてたものですがかの有名な遺書の一つ、藤原操の「巌頭之感」では社会へ宛てたような内容でその年の多くの人間に影響したものでもあります。

 

ついでに「巌頭之感」の本文を載せておきますね。僕の好きな遺書の一つです。

 

巌頭之感


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

 

相違点といえば感情の違いです。死に関わるものですが中には生を全うした、と感じられるような遺書もあります。大抵は自殺か天寿を全うしたかによるものですが世の中には「晴れやかな自殺」とでも呼べるものもあるのかもしれません。巌頭之感が社会に向けられたものであるのなら藤原操の自殺も「晴れやかな自殺」である面も含むのかもしれませんね。いわば自決のようなものでしょうか。

 

 やはり遺書について理解するのは難しいですね。表面上の意味は捉えられても心情まで推し量ることは本当に死を感じるような状況でなければ不可能なのかもしれません。

 

皆さんもこの秋に遺書について調べてみてはどうでしょうか。