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グレープフルーツを許すな

先日、我が家にグレープフルーツが送られました。親が知り合いに貰ったそうです。大量のグレープフルーツ。巨大なその実。

 

アホかと。自意識過剰かと。グレープフルーツ、お前のことを言ってるんだよ、と。

 

なんだよその厚い皮。それを剥いてもなお厚い皮が続く。いい加減剥くのがダルい。そのくせして実は特に甘くもなく、苦味と酸味が繰り返す。食べ終わったころには手がベタベタ。後処理にも困る。じゃあなんで食べるかってお世辞だよ。貰ったからには食べないと悪いってだけの心遣いで食ってやってるんだよ。

 

しかしもう我慢の限界だ。機会を重ねるごとにだんだん送られてくるグレープフルーツが大きくなっている。ソフトボールより大きくなった。巫山戯ているのか。

 

このような現象に僕は見覚えがある。自意識過剰な女と同類項なのである。ガードが固いくせに大して可愛くもなく、お世辞で誉めるとすぐにつけあがって自己管理を更に怠り肥えていく様などグレープフルーツそのものだ。このような女をグレープフルーツ女と呼ぼう。

 

そこで僕はグレープフルーツ女にグレープフルーツは好きですか?という質問を行うべきだと考える。おそらく大半の解答はNOだろう。グレープフルーツの世間での人気を考えるとその解答はもっともである。そしてグレープフルーツ女とグレープフルーツとの共通項をグレープフルーツ女に説明するのである。

 

するとグレープフルーツ女はグレープフルーツを通して自己を反省することができる。その滑稽さ、厄介さ、惨めさ、嫌悪感を全てグレープフルーツを通して知ることができるのだ。いわばグレープフルーツは単なる果実ではなく、心理的側面にも作用する一種のカウンセラーと言うことすらできるだろう。

 

その点において、僕はグレープフルーツを称賛する。さすがだグレープフルーツ。美味しくないのに未だに存在しているだけはある。自らの欠点を最大の利点へと転換するその処世術によりグレープフルーツの価値は-100から100へと変わったというべきであろう。もう全グレープフルーツはカウンセリングの場にだけ置くべきではないか。そして二度と僕の家に送られないでほしい。